「ちょうどいい」をさがす

自律神経失調症で繊細な専業主婦させていただいております

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私は全然優しくない

 最近、ちょっと自分の考えていることを誰かに話すと「優しいね」と言われます。でも、周りの人の方が断然優しいから恥ずかしくなるのですが「優しい」にも何通りもあるということと私の選択する「優しい」はいつも周りとずれているというのがわかってきました。災害時や町中のトラブルのような突然のハプニング時ではなく、かかわりの深い人たちの不自由への<親切>について思うこと

 

人助けの<優しさ>のいろんな形

 職場でも家庭でも、もっと大きく海外ボランティアなんかの場面でも困っている人を助ける時に選択肢があると思うのです。それは

相手の困っていることをそっくりやってあげる 短期即効型 

相手があとで自分でできるように教えたり励ましたりする 長期遅効型

どちらも根っこは「優しさ・親切・愛情」なのだけどそのためにすることは大きく変わってくるんですよね。

職場では「やっといてあげるよ」と「教えてあげるしフォローするからやってみて」

介護では「何もせずにそこにいたらこっちで全部やるよ」と「生活を工夫してリハビリも頑張ろう」

海外ボランティアでは「食糧持ってきたよ」と「作物の作り方を教えるね」

違いは親切を受ける側が<何もしない>か<自分にできることを努力するか> 

どちらも必要でケースバイケースではあるものです。

 

自分の優しさが<優しさ>には見られないー長期遅効型

 私はよく後者を選択します。一番の理由は自分が永遠にその人のそばにいてあげるなんて無理なのだから。そして自分の人生なんて事故なんかで明日突然終わることだってあるのだから。一日も早く、その人が一人でもできることを増やしておいてあげることを選んでしまいがちです。家族のだれかの体が不自由になったらリハビリや体を動かすことに付き合ったり、家具を替えたりすることになります。仕事なら新しいやり方になれるようコツを教えてあげたり、マニュアルを作ってあげたり。

 ところが、後者は挫折ポイントも多いのです。直感的に相手から「この人優しくない。やってくれない。」と感じられたり「教えてくれたこと面倒くさいからしたくない」などの理由で結局相手の生活が向上しなかったりです。

 以前、ある記事で海外援助の場面でも作物の畑の作り方と管理を教えてあげて<種芋>をたくさん渡し「これを教えた方法で増やすんだよ」と言い残しお別れた村を、後日また訪問してみると実は<種芋>をすぐに村の人が食べてしまって何も増やせていないということがあったと読みました。これはもちろんその村にボランティアの人に教わったことの意味をちゃんと把握してみんなを説得、鼓舞する人がいるかいないかで結果が大きく変わると思うのですが「今、おなかがすいていて、目の前に芋があるのになぜ食べないんだ。売らないんだ。増やすために半年も待っていられない」という考えの方が強いとこうなるそうです。畑一面に育った芋を期待して再会したら芋が全部なくなってたら双方がちょっとがっかりですよね。感謝も友情も生まれない。

 

周りには短期即効型が多い

 一方、すぐに望み通りの親切を提供してくれる人はわかりやすく感謝され、見た目にも「いい人」になります。私みたいな者からしたら憧れるほどのフットワークと行動力です。ただその人がもし急にいなくなったら(会社なら転勤とか、家族なら引越しや死別で)後に残った他の人に「同じ親切をしてほしい」という要望だけが残ることがあります。残ったメンバーが同じ考えで引き継げれるならノープロブレムだけど、後者の考え方の人が寄り添うと「あなたは前の人より不親切だ。あの人はすぐ全部やってくれたのに」となりがちです。本当は親切の形が違うだけなのに、短期を見てるか長期を見てるかの違いなのに。

高齢者と若年層の比率からして短期即効型がいつかできなくなる

 近所の自治会でこういうことがありました。

 十数件ある自治会のさらに小さいグループ<組>に班長ができる若い世代の数が減り、4件だけになったので一人の高齢のご婦人が

「自分も班長を辞退したのだけど、かといって若い人にお世話を集中させるのもかわいそう。もう自治会の色んな用事にかかわりが薄くなってきたので組を抜けます。」

とのこと。私は「なんて素敵なご婦人!」と思いました。シンプルに<残る若い人への気遣い>が伝わってくるのです。それを本人に感謝しに行ったくらいうれしかったんです。

 ところが「若い人に任せればやってくれるんだから班長しなくても残っていればいい」というご意見も。言ったのは残った4件中の中でも本当に世話好きな誰よりも喜んで動く方ではあるのですがそれが残る他3件の総意ではなかったため「ちょっと待って!」となりました。残る3件のいわゆる<まだ動ける世代>には自治会以外に仕事や家族など他の現場でのプレッシャーも増えているのにもしそのすべての現場で「若い人がやってくれる」と全任せされたらどうなるんでしょう?そのご婦人の親切な提案はとても暖かい気持ちになったのに無視しちゃうの?と。

 結果、一度「以前から抜けたいと思っていた人が抜けたらどうなるかやってみよう」ということにしたらなんと逆に残留希望組が3件しかいなくなりました。さらに意外なことに退会組も残留組も関係なく高齢者のお隣同士助け合って用事を一緒に済ませてあげた、という現象が起きたんです。つまり、「用事はできるけど、十数件全部の面倒を見る<リーダー>はできない」という方たちが進んで自分にやれることをやってくれたわけです。ちょっと感動しました。若い誰かがすべて面倒見るスタイルでは引き出せなかった景色です。

 

まとめ

 長期遅効型の私は「なぜこっちの親切を選ぶのか」を話す機会が与えられると最初に書いたように「優しいんだね」と言われます。”考えすぎ”の思考パターンかもしれません。逆に傍から見てるだけで説明不足だと「冷たい人」です。自分が高齢者側になったら何か変わるかもしれませんが母や亡くなった父を見ているとたぶんDNAにこの思考は埋め込まれている気もします。

 今まさに急なトラブルで困っている人を見つけたら 短期即効型

 長く続くことが予想される不自由に困惑してる人が身近にいたなら 長期遅行型

 

<本物の親切>なんて定義づけをする気はなく、いい塩梅で見極めていきたいと思うのです。